映画「ブラック・スワン」雑感

だいぶねたばれしてます。

俺はつい最近までほとんど全く映画を見る習慣がなかった。映画館はもちろん、レンタルですら見ることはほとんどなし。

それが変わったのは、なんといっても町山智浩の影響だ。ストリームに町山智浩が出ていなかったら、出ていてもああいう声でなかったら、ああいう挑発をする男でなかったら、やっぱり映画を見てなかったはずだ。

水道橋博士はときどき「町山門下生」なんて言ってるけど、映画を観ること自体はもちろん、評価についても、正直町山智浩の影響はメチャメチャ受けてしまう。映画を見たあと、良かれ悪しかれそれが印象的であるならば、彼がその映画についてどうコメントしているか気になって調べるし、それは俺にとって答え合わせに近いものがある。

この映画を見終わった後、彼の評価を確認してみると「今年観た映画のなかでベスト3に入る面白さ」だった。尚、ブラック・スワンに関しても彼のコメントはいつものように非常に興味深いものだった。やっぱ映画評論って必要だよな。不要だのなんだの丸っきりの寝言だよ。

ま、それはともかく、俺がこの映画を見終わったとき思ったのは「なんだこりゃ」だったのだ。つまり町山門下生としては大外しであったわけだが、ではなんで「なんだこりゃ」と思ってしまったのか、ちょっと考えてみたい。

局部的にはいいシーンがいっぱいあるのだ。特にニナが追い詰められていくときの身体描写はいちいち素晴らしかった。個々のシーンではギクリドキリとしまくりました。しかし、トータルで見ると「なんだこりゃ」であったのだ。

そもそも俺はバレエも映画も見ないのだが、奇跡的に10年くらい前に渋谷で「エトワール」というドキュメンタリー映画を見ている。バレエの世界の過酷さと儚さが、バレエに閉じず一般化されてこの世界の残酷さと美しさを伝える作品になっていた。

その映画に出てくる「エトワール」は全員魅力的だった。バレリーナとしてだけでなく、人間的に引力があるツラ構えをしていたし、説得力のある言葉を発していたのである。

本格的なバレエドキュメンタリーと比較したら分が悪いのはあたり前だろうが、ブラック・スワンのバレエ世界の描写は、なんとも薄っぺらに感じた。薄っぺらだからこそ、あの魅力のないニナが主役を張れる。ニナは男と濃厚に絡むどころか、ロクに友達もいない。楽屋でもいつもぽつんと一人だ。まともに話をしているのは母親だけのマザコン野郎なのだ。唯一のカラミですら、クンニしてるのは女で、しかも妄想。実際のバレエの世界で、役を演じるのに人格がどれくらい重要なのか知らんが、少なくともこの映画の中でトマスが求めているのはバレエの技術を超えた何がしかであって、それにはニナは到底及んでいない。つまり、こんなバカな人選はねえだろうと思わされるところで冷めてしまった。

(ニナはなんだか女版モリッシーみたいだ。だが、モリッシーが無謀にも王子を目指すって話だとだいぶ面白そうな気がしてくるから不思議だ。)

話が進行していくに従って、ニナの精神は破綻をきたしていくのだけど、その妄想力にもだいぶ引いた。物語中の決定的な事態のほとんどが実は主人公の妄想でした!となってしまうのはいくらなんでも・・・・。そりゃ妄想ならなんでもありでしょうよ。

ところで、オナニーしてる時のニナは、一体何をオカズにしていたんでしょうかね。みなさん、どう思いましたか?

というのは、俺にはニナは純粋なレズビアンに見えたから。トマスの唇を噛んでしまったのは男とキスするのが嫌だったからだし、男を誘う黒鳥がサマにならないのもニナがレズだからだ。王子役に対する「ヤリたいか?」というトマスの問いは、如何ともしがたいセクシャリティを表現するセリフとしては秀逸だ。

そういう自分を認めつつ乗り越えるというなら映画になると思うけど、ニナは自分を乗り越えて黒鳥になるわけではない。内気なマザコンレズビアンであるという自分自身の埒内で相変わらず妄想して、終わってしまう。

そもそも突き詰めて考えてないんだよね、きっと。だから、オカズについての言及がないんだと思うのですよ。

ま、とにかく、そもそも性的に打っても響かない女性を黒鳥にしようとした時点で脚本のミスだと思う。明確にセクシャリティを乗り越えさせるのでなければ、レズ的要素は排除しないといけなかったんじゃないか。

あとは・・・黒鳥が往年のミチロウに見えてしまったというのも個人的にマイナス・・・というかプラスだったのか?なんだかよくわかんねえや。僕から以上。

いま気づいたけど、宇多丸師匠もシネマハスラーで取り扱ってるのね。再度答え合わせで打たれてみます。