「今、僕は」雑感

今、僕は」を見に行きました。

堂々の単館上映@アップリンクX.渋谷です。

渋谷に来たのはたぶん8年ぶりくらいだなー。

あるとき、日が陰ったように「あれ、なんか居心地が悪い・・・」とふと気づいて、それから行かなくなったのだ。

シスコってなくなっちゃったのね・・・・テクニークも今はないんでしょうか。

さて。

かつて、一人暮らしの部屋でゴロゴロしたまま動かずにいたことがある。なぜそうなったのか、具体的にいつごろだったのか、学校はどうしてたのか、バイトしてなかったのか、友達はどうしたんだ、女はどうしたんだ、生活費はどうしてたなどなど諸々の状況はほとんど覚えてないんだけど、まとわりつく重力のかったるさだけは鮮明だ。

たるいんである。とにかくたるくて、どのくらいたるいかっていうと指先を動かすのが辛い。

200m離れたクリーニング屋に行かなきゃなあ・・・と思ってから実際に行くまでに2週間かかったような記憶もあるなあ。

要は、当時の俺はほぼ「ニート・引きこもり」だったってことだ。

そして、残念ながら当時の俺と今の俺に、あまり違いはないと思う。未だに「ニート・引きこもり」体質は、はっきりとある。

しかし、とりあえず、今の俺は「ニート・引きこもり」ではない。なぜかというと、様々な外部的な制約やプレッシャーや要請が、どろどろ崩れていきそうな俺の外壁につっかい棒をして、崩れるのを防いでいるからだ。

かつて、誰かが「大人になるということは、内部にコワイ親父を確立するということだ」みたいな事を書いてた。子供の頃の「社会性」だったり、人間が人間である根拠を辛うじて支えてるのは、外部に居る「怖いオヤジ」だったり怖いオヤジ的存在だったりするわけなんだが、大人になると周囲に「怖いオヤジ」はいなくなる。だから大人は、自らを律し、少なくとも社会に迷惑をかけない程度に「ちゃんと」するために、内部にオヤジを作り上げる必要があるんですよ。そういう話だったと思う。

ああ、俺は内面にオヤジを育てられなかったんだなあ、とその話を読んだときに感じたのを思い出した。失敗したんだな、と思った。

しかし、失敗して外にも内にも鬼親父がいなくなった俺は、それでも今なんとか社会生活を営めている。

あやふやな外部に支えられている俺は、結構あやうい橋を渡っていて、この先いつそこから転げ落ちてもおかしくないのかも知れない。しかし、今のところは、辛うじてでもなんとか橋を渡れている。

映画が終わり電気がついた後、明晰な印象の男がスクリーン脇に立ち、話しはじめる。「どうもありがとうございます。監督で、映画にも出ていた竹馬です・・・」

映画を見終わったあとに監督が話し出したことにも驚いたし、「悟」が監督だったことにも驚く。(そのくらい、「悟」は見事なニートだ。監督自身が映画に出てることは知ってたが、藤澤だと思ってた)

あの「音」とともに現れる藤澤は、まるでゾンビみたいで笑えた。しまいには病院を抜け出してやってくる。この映画のなかで一体何度「悟君」というセリフが出てきたんだろう。誰か数えてみてほしい。

しかし、藤澤はまさしくハタ迷惑な異物だが、あの状態の悟には絶対に必要な外部だ。

外にも内にも鬼親父がいないのならば、外側からそっと支えあうしかないのだ。

監督のあいさつのあと、10分ほど質疑の時間があった。監督はあえて直裁な言葉で語らない。俺は伝えたいことをベストを尽くして映画に込めたし、一度リリースされたものはもう俺のものじゃない。あとは、観客がそれぞれ感じたことが正しい。というようなことを言っていたし、今更言えることはそれだけだと本当に思っているのだろう。