ぐるりのこと。雑感

ぐるりのこと。を、DVDで見ました。

繊細で「ちゃんとした」女性と、どっちかというと鈍くてもっさりしてるがなかなか揺るがない男性という構図は先日見た「シークレット・サンシャイン」と同じだな。

あることをきっかけとして、女性のほうがいちど壊れてしまうのもそういえば似てるな。まあ、それだけなんですが。

主役の一人であるところのカナオは、この映画の冒頭で法廷画家というちょっと特殊な職業に就く。なぜ法廷画家なのか、見終わったあと薄ボンヤリと考えてる。で、まあ結局よくわからんのだが、この監督が不必要な設定をするはずはないだろうなあという信頼感はこれまた薄ボンヤリと感じてるのできっと必要な設定なんでしょうな。

1990年代の法廷でカナオが観察し描くのは、折々の事件の始末をつける場での、以下のような情景。

・幼稚園児だっけ?である子供の同級生を殺害した女性と、証人?であるところの被害者の母親。加害者が事前に感じていたであろうある種のプレッシャーと、どう書いたものか難しいが、被害者女性と加害者の母親は、事前も事後も「わかりあう」ことは絶対ないだろうなあと感じさせる断絶を短い描写で鮮やかに描いてたなあ、このシーン。

オウム事件をモチーフにした事件、慟哭する被告と、キモいっス!以外 俺には言い表せられん、傍聴人席に居並ぶ信者の振る舞い。「宗教心」とそれを総括することの巨大な段差を手短にかつ必要十分に表現してた。

・無差別に小学生を殺した被告が、被害者の母親を罵倒する。泣き崩れる両親と、壊れた表情の被告には、もう一切なんの感情的接点もなかろう。刑務官はいつエメラルド・プロージョンを炸裂させてあの男を黙らせますか?早く早く!と思ってしまった。これまた端的に(以下略)

宮崎勤をモチーフにした被告と、弁護士含めたその他全員の絶望的な距離。なぜ距離があるのか、なぜ理解がないのか、この事件に関してだけは理由は明確で、なぜならこの人どう見ても病気だからだ。ちょっと話は変わるけど我々はこの病人を急いで「抹殺」したわけなんだが、この奇怪な法廷風景(どれくらい再現度が高いのかはわからんが)を見るともうちょっと慎重であってよかったんじゃないのかと思わずにいられなかった。まあそれはともかく、抹殺しようがしまいがここにも救いは一切ないですね・・・・

こういう救いようがない出来事、眩暈がするような断絶、日本で一番彼岸に近い眺めを日常的に目の当たりにするカナオの仕事生活の一方、私生活は楽しく始まり、ひそかに危機が近寄り、そして5年ほどの年月を経て破綻と救済があり、また始まっていく。

私生活の危機の、ピーク時のメーター振り切りっぷりはなかなかで、こりゃ完全にガイキチだ正直付き合ってられんと俺は思わず呟いた。しかし公私両面で「やってられん」目にあってるカナオは、タフなんだよね。タフというか鈍いというか、なんか全然メゲないのだ。

彼はきっと、こんなもんだよ、と思ってる。調子悪くて当たり前だよ、と思ってる。なるようにしかなんねえ、と思ってる。他人のことなんて、最終的にはわからないと思っている。メゲないというか、最初からメゲてるからそれ以上メゲようがないんだな、奴は。

そのカナオの・・・まあ絶望感みたいなのが、この物語においては、悪いほうに働かない。時を経るにつれ鍛えられ、敲かれ、そして自分を生かし他人も生かす、丸みみたいな何かを帯びていく。

法廷画家っていう設定は、たぶん折々の事件に関連し劇中の時間感覚を表す目盛りとして機能してるし、カナオのタフさを際立たせるツールでもあるし、カナオを磨く砥石でもあるわけだ。

修羅に生きた翔子の父親の現在を、カナオは最後にまあるく描く。そしてそのまあるい肖像に、義兄も義母もそして見ている俺もなんだかストンと腑に落ちてしまうのだ。

やっぱりヒトはちょっと鈍感なくらいがいいんだ(断言)。そのほうが世のため人のため自分のためだ。たかがサカーチームが一度や二度負けたくらいでキーキー言うもんじゃないよネ。