審判問題問題

先週の鹿島-浦和を直接のきっかけに審判問題が盛り上がっているようなので俺もちょっと考えてみた。

例の試合はスカパーで見たんだけど、普段もっとすごいジャッジを見慣れてるせいか、そんなにヒドイとは思えなかった。とんでもない「誤審」もなかったように思う。だけど、「問題」らしいのだ。一体なにが問題なのか。目を皿のようにして見たわけじゃないし、テレビだと見えないところもたくさんある。だから、判定に間違いはあったかも知れない。あったとして、それが問題なのだろうか。

サッカーの審判に何を求めりゃいいんだろう。

「全てにおいて絶対正しいジャッジ」なんて有り得ないのだから、そもそもそんなもんを求めてはいかんと思う。

「絶対正しいジャッジ」というものがないんで、審判に求められる最大のことはせいぜい「出来る限り正しいジャッジ」だ。

じゃあいずれ必ず起こる「誤審」や微妙な判定をサッカーはどう扱うか。

規則にはこうあった。

「プレーに関する事実についての主審の決定は最終である。」

つまり、サッカーには誤審という言葉はない。だって事実は審判の判定により決まるんだから。

ワンプレーごとにゲームを止め、13人の判定人があらゆる角度から撮ったビデオを見て合議で判定を決める。

判定に緻密な正確さを求めたらたぶんそうなるんだろう。実施したところでそれが本当に「正確」なものになるとは俺には思えないんだが。それはともかく、そんな競技だったら俺は見ないよ。たるいもの。

公正なジャッジを追求すると謳ってる人はサッカーにちょっと似てる、別の競技を見ることになる。それならそれで頑張ってください。

俺はサッカーを見るから。

エル・ゴラッソに「審判問題」について「間違ったことを間違ったと言うメンタリティの改善が必要」と書いてた人がいる。

だけど、競技規則にあるとおり一度確定した判定に間違いはないことになってる。間違ってないことになってるのに「間違いでした」と言える訳がない。

もう一点。百歩譲って「間違いでした」と言わせたとして、何か具体的にサッカーのために改善されることがあるのか。

もちろんなにも改善されない。

間違いでしたと言わせたところで、相変わらず、今週末もどこかのスタジアムで「誤審」は起こる。絶対に起こる。

だから、その「改善」には、単なるウサ晴らし以上の意味はない。叩きやすいところを叩いてすっきりしたいだけに過ぎない。そんなもの、最早サッカーと関係ない話だ。

教育に金かけて審判の質を上げたところで「誤審」はゼロにはならない。あとはプレイする人と見てる人の問題だ。負けたり引き分けたりするたびに毎度「誤審」についてキイキイ騒ぎますか? それともサッカーにちょっと似た別のスポーツを見ますか?

「一体何をブーブー言ってるの」と不満げな人たちに聞いてみたら、「誤審なんてどうでもいい。柏原の態度が問題なんだ」というこたえも返ってきた。

態度かあ・・・・まあ、態度は友好的に越したことはないね。

お互いに。

審判に文句は俺も言う。があがあ言う。でもそれは主審の態度が悪いからでも判定が不正確だからでもない。

正確な意味での深刻な「審判問題」があるとしたら、意図的な「誤審」を行う審判がいた場合くらいじゃないか。